中部大学 西山伸一 文化庁  イラク・クルディスタン文化遺産保護英語ページ


Archaeology of Iraq
イラクの考古学

1.About Iraq  イラクという国

 イラク共和国の現在の西アジアの中央部に位置する国で、国として独立したのは、1932年。当時はイラク王国としてイギリスより独立を達成しました。しかし、イラクは、長くイギリスの影響下にあり、1958年7月14日革命により、共和制を成立させました。その後、バース党の一党独裁体制が2003年のイラク戦争まで続きます。
 クルディスタン地域は、1970年3月11日にバアス党政権により設置されました。アルビール県、ドホーク県、スレイマニヤ県からなります。現在はこれにハラブジャ県が新たに設置されています。
 1979年7月、バアス党のサッダーム・フセイン(1937-2006)が大統領に就任し、独裁政権がはじまります。その政権中、イラン・イラク戦争(1980-1988)、湾岸戦争(1990-1991)、イラク戦争(2003-2011)が起こり、イラクは混乱に巻き込まれていきます。
 考古学調査も戦争により、さまざまな障害が起こり、日本調査団も活動の停止を余儀なくされました。
 現在では、イラクの情勢はかなり安定してきていますが、外務省は、大半の地域で危険情報のレベル4(退避勧告)もしくはレベル3(渡航中止勧告)を出しています。中部大学の活動しているスレイマニヤ県は、現在レベル2(不要不急の渡航中止)です。
 クルディスタン地域は、イラク戦争後、混乱のあったイラク国内で急速に治安の安定化と経済発展を遂げます。現在は、アルビールとスレイマニヤにそれぞれ国際空港があり、バグダードを経由せずに直接クルディスタン地域に入ることができます。   


イラクの国旗

クルディスタンの旗



2.Mesopotamian Archaeology  メソポタミア考古学

 メソポタミアとは、古代ギリシア語で「複数の河の間(の土地)」の意味で、現在ではティグリス河とユーフラテス河が流れるイラクの領土を主に指しますが、本来は、現在の北イラクから南東アナトリア(トルコ)の地域を指していました。
 メソポタミアで本格的に考古学調査が開始したのは19世紀末から20世紀初頭といわれますが、19世紀半ばよりイギリスとフランスのいわゆる「発掘競争」が展開されました。当時は、旧約聖書に描かれた諸王国の舞台として、優品をヨーロッパの博物館・美術館に持ち帰ることを目的に調査団が派遣されました。当時、イラクという国はなく、西アジアの大半はオスマン帝国の領土でした。
 メソポタミアの考古学は、やがて科学的な調査手法を洗練させていきますが、ヨーロッパ諸国による遺跡の独占が長く続き、現在でもメソポタミアの外国人調査は、ヨーロッパ諸国が中心となっています。
 日本調査団として初めて考古学調査を実施したのは東京大学イラク・イラン遺跡調査団でした。1956年のことです。その後、1971年より国士館大学が参入し、2001年まで精力的に調査を行いました。東京大学は、1979年にイラク調査から撤退しました。


復元されたアッシリア帝国の王宮内部。A. H.レヤード『ニネヴェのモニュメント(The Monuments of Nineveh)』(1849年)から。

発掘で出土したアッシリアのラマッス像をイギリスにむけて運び出す様子。A.H.レヤード『ニネヴェとその廃墟(Nineveh and its Remains)』(1849年)から。


3.Japan and Iraq  日本とイラク

 日本とイラクの外交関係は、1939年、イラクが王国であった時代に遡ります。第二次世界大戦中は、国交が断絶していましたが、1955年に国交が回復しました。その後、湾岸戦争までイラクと日本の関係は良好でした。2003年イラク戦争を経て、戦後復興に自衛隊が2003年から2006年(航空自衛隊は2008年)まで支援を行いました。2004年に当時のイラク暫定政権との間で12年半ぶりに国交が回復しました。2019年には外交関係樹立80周年記念の各イベントが行われています。 日本の製品は優秀であるというのは多くのイラク人のもつ感想で、特に自動車に関しては日本車が圧倒的に高い評価を受けています。クルディスタン地域でも、多くの日本車(トヨタ、ニッサン、マツダ、スバルなど)が走行しています。



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